比叡山焼き討ちは何があった?1571年9月12日の経緯と、『信長公記』の記録・発掘調査でわかったこと、延暦寺再興までの4つの流れ

※本記事には広告・アフィリエイトリンクが含まれます。

織田信長の出来事の中でも、比叡山焼き討ちは「残酷な信長」のイメージと強く結びついて語られてきました。比叡山延暦寺のお堂をすべて焼き払い、僧侶から子どもまで数千人を手にかけた――教科書やドラマでそんなふうに覚えている方も多いのではないでしょうか。

ところが、当時の記録をよく読み、昭和以降に行われた発掘調査の結果と照らし合わせてみると、話はもう少し複雑です。焼き討ちそのものは確かにあった出来事ですが、「全山が一度に灰になった」という描かれ方には、考古学の立場から疑問も出されています。この記事では、焼き討ちに至るまでの経緯、『信長公記』などの記録に書かれていること、発掘調査でわかったこと、そして延暦寺がどう立ち直ったのかを、4つの流れに分けて一緒に読んでいきますね。

目次

比叡山焼き討ちに至るまでの経緯

『信長公記』の現代語訳を楽天市場で探す

まずは、なぜ信長が比叡山を攻めることになったのか、その前の年からの流れを見ておきましょう。焼き討ちは突然起きたわけではなく、1年ほど前から信長と比叡山のあいだには緊張が続いていました。

元亀元年の「志賀の陣」で比叡山が浅井・朝倉方についた

焼き討ちの前年にあたる元亀元年(1570年)、信長は6月の姉川の戦いで浅井長政・朝倉義景の連合軍に勝利しました。ところが同じ年の8月、摂津で三好三人衆らと戦っていた野田・福島の戦いのさなかに、浅井・朝倉連合軍に背後を突かれてしまいます。

このとき浅井・朝倉連合軍が立てこもったのが、京都と近江の境にそびえる比叡山でした。信長軍は比叡山を囲みましたが、山の上に陣取る相手を攻めきれず、にらみ合いが続きます。この比叡山をめぐる攻防は「志賀の陣」と呼ばれ、最終的には正親町天皇の調停によって和睦が成立しました。

当時の信長は、浅井・朝倉のほかにも、近江南部で動く六角義賢、摂津・河内を押さえる三好三人衆、石山本願寺と、四方を敵に囲まれた状況でした。のちに「信長包囲網」と呼ばれる状態です。京都のすぐそばにある比叡山が敵方の拠点になることは、信長にとって大きな脅威だったと考えられています。

比叡山の東側、琵琶湖のほとりには、明智光秀が守りを任されていた宇佐山城がありました。志賀の陣のあとも、この一帯は信長方と反信長方がせめぎ合う最前線だったわけです。焼き討ちの舞台となる坂本の町も、この宇佐山城から近い場所にありました。

宇佐山城そのものの成り立ちは、滋賀県文化財保護課の担当者が書いたコラムに詳しく紹介されています。それによると、1570年(元亀元年)5月、朝倉攻めに失敗した信長は、京都への往来を確保するため、家臣の森可成にこの山へ城を築かせました。可成は城の北に坂本と京都を結ぶ山中越えの新しい道をつくり、南の逢坂の関や小関越えを閉じて、人の行き来の監視を強めたといいます。大津市歴史博物館の歴史事典によると、城跡は近江神宮の背後にある標高336メートルの宇佐山の頂上にあり、本丸・二の丸・三の丸に分かれ、背の高い石垣が今も残っているそうです。

同じコラムは、志賀の陣の日付も追っています。9月16日、浅井・朝倉連合軍が延暦寺と呼応して西近江に進み、9月19日には城から討って出た森可成が討ち死にしました。大坂から急いで戻った信長は自ら宇佐山城に入り、延暦寺へ通じる道の京都側・近江側の出入り口に兵を置いて兵糧攻めにかかります。それでもにらみ合いのまま時が過ぎ、和睦が成ったのは雪が降り始めた12月でした。可成が葬られた大津市比叡辻の聖衆来迎寺は、その墓があったために翌年の焼き討ちを免れたと伝えられています。

信長が比叡山に示した条件と、比叡山側の対応

小学館の雑誌『サライ』のウェブ版に掲載された、元『歴史読本』編集者の安田清人さんによるリポートでは、焼き討ちの前年に信長が比叡山へ伝えた条件が紹介されています。内容は、信長に味方すれば織田領内にある比叡山の領地を返す、出家の身なのだから中立を守ってほしい、それができないなら根本中堂を焼き払う、というものでした。

これに対して比叡山側は返事を避け、そのまま浅井・朝倉方に味方した、と同じリポートは説明しています。ウィキペディアの記述でも、比叡山側は信長が横領した寺領の返還を約束する講和も拒んで浅井・朝倉連合軍を助けたため、信長側は軍事的な拠点として完全に破却しようと考えたとされていました。

『信長公記』には、比叡山の僧たちが修行や出家の作法を守らず、魚や鳥を食べ、金銀のやりとりにふけり、浅井・朝倉に味方して勝手なふるまいをしている、と非難する言葉が記されています。焼き討ちの理由についても、比叡山が浅井・朝倉方についたことへの憤りを晴らすため、と書かれていました。

安田さんのリポートは、近年の研究では「既存の権威や宗教を否定する革命児」という信長像は修正されてきている、と述べています。信長は仏教や天台宗そのものを否定したのではなく、宗教者でありながら大名同士の争いに加わり、武力で敵対したことに怒った、という見方です。もちろん、だからといって焼き討ちが正当だったかどうかは別の問題で、評価は今も人によって分かれています。

攻撃の直前に、信長方がどのように地元を固めていたのかを示す手紙も残っています。安田さんのリポートによると、焼き討ちの10日前にあたる9月2日、宇佐山城を任されていた明智光秀は、西近江の国衆・和田秀純に宛てて戦況を報告する書状を送りました。その中には「仰木村などはなで斬りにしよう」という一文や、一向一揆の拠点となった志村城を信長が「干殺し(兵糧攻め)」にした、といった不穏な言葉が並んでいたそうです。

同じ書状で光秀は、和田氏や八木氏といった、信長に従った国衆にくり返し礼を述べていました。リポートはこれを、敵に回ればどうなるかを示しておどしつつ、味方は丁寧につなぎとめようとする文面だと読んでいます。小説やドラマでは、光秀が焼き討ちをいさめて信長の不興を買い、それが本能寺の変につながったと描かれることがあります。けれどもこの書状からは、光秀がむしろ比叡山攻めに深く関わっていたと考えられる、というのがリポートの見方でした。

『信長公記』や日記に書かれた1571年9月12日の様子

織田信長の史料や研究書を楽天市場で見る

元亀2年9月12日(1571年9月30日)、信長は比叡山への総攻撃を命じました。この日に何が起きたのかは、信長の家臣だった太田牛一がまとめた『信長公記』や、京都の公家の日記などに記されています。ここでは、記録に書かれている内容を順番に見ていきます。

「一宇も残さず」と書かれた『信長公記』の記述

『信長公記』には、9月12日に比叡山を取り囲み、根本中堂や山王二十一社をはじめ、仏堂や神社、僧坊、経巻まで一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払った、と書かれています。山の下の人々は老若男女を問わず逃げまどい、取る物も取りあえず八王子山へ逃げ上がって社の中に立てこもったものの、四方から攻め上った兵たちが、僧も俗人も、子どもも、学のある僧も上人も、一人ひとり首を斬って信長に見せた、という生々しい描写まで続いていました。

ウィキペディアの解説によると、攻撃はまず坂本や堅田の周辺に火を放つところから始まったとされています。坂本周辺に住んでいた僧侶や住民たちは、日吉大社の奥宮がある八王子山に逃げ込みましたが、そこも焼かれたそうです。

焼き討ちの直前には、延暦寺が黄金の判金300、堅田からも200を贈って攻撃の中止を願い出たものの、信長は受け入れなかった、という話も紹介されていました。

焼き討ちのあと、信長は戦後の処理を明智光秀に任せ、翌13日の朝には馬廻り衆を連れて比叡山を離れ、京都へ向かったとされています。延暦寺や日吉大社の寺領・社領は取り上げられ、光秀や佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀らに分け与えられました。

光秀はこのあと近江国志賀郡の支配を任され、坂本城を築くことになります。安田さんのリポートでは、坂本城は翌元亀3年(1572年)にはほぼ完成していたとみられる、と紹介されていました。

大津市の文化財の案内によると、坂本城は焼き討ちのあと、信長が光秀に命じて浜坂本(三津浜)に築かせた城です。延暦寺を見張るだけでなく、信長の領国である美濃と京都を結ぶ道を押さえ、琵琶湖の水上交通の要所としても重要でした。大津市歴史博物館の歴史事典は、本丸が琵琶湖に突き出した水城で、天守を持つ城としては安土城より早い時期のものだと説明しています。安田さんのリポートでも、坂本城を訪れた公家の吉田兼和が日記『兼見卿記』に大天守と小天守があったと書き残していることや、宣教師フロイスが安土城に次ぐ城だと述べたことが紹介されていました。

坂本城は1582年に焼け、その後丹羽長秀によって再び築かれて、数年は使われていたようです。1979年の発掘調査では、焼けた土や礎石、井戸、溝、石垣の基礎の石などが見つかりました。今は埋め戻されていますが、湖岸の水の中には今も石垣の列が見えると歴史事典に書かれています。焼き討ちの戦果が、そのまま湖畔の新しい城に形を変えたわけです。

犠牲者の数は記録によって違う

焼き討ちで亡くなった人の数は、記録によって大きく違います。ウィキペディアにまとめられている数字を整理すると、次のようになります。

記録 書き手 犠牲者の数
『信長公記』 信長の家臣・太田牛一 数千人
ルイス・フロイスの書簡 イエズス会の宣教師 約1,500人
『言継卿記』 京都の公家・山科言継 3,000〜4,000人

『言継卿記』や、宮中の女官たちが書き継いだ『御湯殿の上の日記』には、寺社や堂塔500余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶や男女3,000人が一人ひとり首を斬られた、といった記述もあるそうです。

ここで気をつけたいのは、どの記録も「その場で数えた数字」ではないという点です。『信長公記』は信長の家臣がのちにまとめたものですし、公家の日記は京都で聞いた話を書き留めたもの。フロイスの書簡も、宣教師の立場から書かれた報告です。それぞれの書き手の立場や、情報をどこから得たのかを考えながら読むことが大切になります。

安田さんのリポートは、『言継卿記』にも、日吉神社や山上の東塔・西塔に残らず火がかけられ、僧も俗人も男女を問わず3,000〜4,000人が斬られたという、『信長公記』とよく似た記述があると紹介しています。京都にいた公家と、信長の家臣という、立場の違う二人が似た内容を書いていることは、焼き討ちの大きさを伝える根拠として重く見られてきました。一方で、どちらも山の上の様子を自分の目で見て数えた記録ではない、という点は変わりません。

リポートはさらに、大虐殺の話が長く信じられてきた背景にも触れていました。信長を悪人として描きたい人にとっても、常識を打ち破る天才や「魔王」として大きく描きたい人にとっても、虐殺の話は都合がよかったのではないか、という見方です。筆者自身も「うがちすぎかもしれない」と断っており、一つの解釈として読むのがよいでしょう。京都観光オフィシャルサイトも、焼き討ちを「神仏に対する大罪」と非難する人もいれば、戦国の世を終わらせるためにやむをえなかったと擁護する人もいる、と両方の立場を紹介していました。

数字に幅があるからといって、焼き討ちがなかったということにはなりません。多くの人が命を落とした出来事であることは、どの記録にも共通しています。そのうえで、「どこで、どのくらいの規模だったのか」を確かめる手がかりとして注目されたのが、次にお話しする発掘調査でした。

発掘調査でわかった「全山焼亡」とは違う姿

比叡山延暦寺の歴史の本を楽天市場で探す

記録だけでは分からない部分を補ってくれるのが、考古学の調査です。比叡山では昭和の後半から発掘調査が行われていて、焼き討ちの規模についても新しい見方が示されるようになりました。

焼失がはっきり確かめられたのは根本中堂と大講堂

ウィキペディアの解説によると、比叡山では昭和後期に、大講堂の建て替え工事や奥比叡ドライブウェイの工事に伴う発掘調査が断続的に行われました。この調査にあたった考古学者の兼康保明さんは、1981年に「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」という論考を発表しています。

この論考で示されたのは、信長の焼き討ちで焼けたとはっきり指摘できる建物は、根本中堂と大講堂だけだ、という見方でした。ほかの場所でも焼けた土の層は見つかっていますが、その多くは焼き討ちより前にすでに廃絶していた建物のものだったそうです。また、出土した遺物は平安時代のものが目立ち、坂本城の遺物と比べると16世紀のものは少ないことも指摘されていました。

兼康さんは、こうした結果から、焼き討ちのときに比叡山の山上にあったお堂の数は限られていて、『言継卿記』などにある「全山が火の海になり、大量虐殺が行われた」という説は誇張が過ぎるのではないか、と述べています。ただし、調査が行われたのは東塔・西塔・横川の一部に限られていて、比叡山の全体を調べたわけではない、という点も添えられていました。

安田さんのリポートでも、この論考が紹介されたうえで、焼き討ちは「あることはあったが、全山を焼き尽くすような大規模なものではなかった」可能性が高い、とまとめられています。

リポートによると、この論考は『滋賀考古学論叢』第1集に載ったもので、兼康さんは東塔・西塔・横川という三つのエリアで発掘調査員を務めていました。延暦寺の公式サイトでは、比叡山には三塔それぞれに中心となる「中堂」があり、東塔の根本中堂はその中でも最大の仏堂で、延暦寺の総本堂だと説明されています。焼失が確かめられた二つの建物が、どちらも東塔の中心部にあったことになります。

根本中堂の規模について、公式サイトの年表は、慈恵大師の時代に谷を埋め立てて現在と同じ規模の11間の大堂に改修し、廻廊や中門を新しく造ったと記していました。文化庁の文化遺産オンラインによると、現在の根本中堂は桁行十一間・梁間六間の大きな堂で、内陣を土間とする天台宗の本堂の形式を伝える代表的な建物とされています。焼き討ちのときに失われたのは、すでに今と同じほどの大きさを持つ堂だったと考えられます。

僧の多くはすでに山麓の坂本にいた?

では、比叡山の僧侶たちはどこにいたのでしょうか。手がかりになるのが、奈良・興福寺の僧侶だった英俊が書き残した『多聞院日記』です。安田さんのリポートによると、英俊は焼き討ちの前年、元亀元年に比叡山を訪れていて、比叡山の堂舎や坊舎はことごとく廃れ、僧侶の多くは山麓の坂本に移り住んでいた、と書き残しているそうです。

信長よりおよそ100年前には、室町幕府の6代将軍・足利義教も延暦寺の僧侶を制裁するために軍勢を送り、比叡山を焼き討ちしています。その後に復興の努力はあったと思われるものの、信長の時代の比叡山はすでに衰退期に入っていた、という考え方もある、とリポートは紹介していました。

それなら、殺戮は山麓の坂本で行われたのでは、という説も出てきます。ところが、平成元年(1989年)から翌年にかけて、坂本の里坊(人里に置かれた僧侶の住まい)の跡で部分的な調査が行われたところ、里坊のひとつである延命院の境内からは、信長の時代の火災の痕跡は見つからなかったそうです。

ウィキペディアでは、『信長の天下布武への道』という本の「殺戮は八王子山を中心に行われたようである」という見方も紹介されていました。『信長公記』にも、人々が八王子山へ逃げ上がったと書かれていましたよね。発掘された範囲はまだ限られているので、確定的なことは言えませんが、「山の上のお堂が全部燃えて、そこで数千人が亡くなった」という単純な図式は、今では見直されつつあると言えそうです。

八王子山がどんな場所なのかも確かめておきましょう。日吉大社の公式サイトのよくある質問では、西本宮と東本宮の二柱の神を主祭神とし、神体山の八王子山と13万坪の境内にある数々の社殿をまとめて「日吉大社」と呼ぶ、と説明されています。人々が逃げ込んだのは、日吉大社にとって神そのものとされる山だったわけです。安田さんのリポートによると、延命院跡の調査はトレンチ(試掘坑)を使った部分的なもので、山上にも山麓の里坊にも、大規模な焼き討ちの証拠は見つからなかったとまとめられていました。

坂本の町と山上の東塔は、今は坂本ケーブルで結ばれています。延暦寺の公式サイトによると、東塔地域の延暦寺バスセンターからは西塔や横川へのシャトルバスが出ていて、坂本ケーブルで門前町の坂本へ降りることもできると案内されていました。滋賀県文化財保護課のコラムで焼き討ちを免れたと紹介されていた聖衆来迎寺も、同じ大津市の比叡辻にあります。山上と山麓の両方を歩いてみると、記録と発掘の話がより立体的に感じられるでしょう。

焼き討ちのあと、延暦寺はどう再興されたのか

楽天市場で比叡山・延暦寺ゆかりの品を探す

焼き討ちで大きな打撃を受けた延暦寺ですが、その後、少しずつ再興されていきました。現在の比叡山に残るお堂や、「不滅の法灯」と呼ばれる灯火の歴史をたどると、焼き討ちのあとの流れが見えてきます。

秀吉の仮堂建立から家光による根本中堂の再建まで

比叡山延暦寺の公式サイトにある「根本中堂の歴史」によると、根本中堂の始まりは、延暦7年(788年)に伝教大師最澄が建てた「一乗止観院」でした。その後、何度も改修を重ねて規模を大きくしてきた根本中堂は、元亀2年(1571年)に織田信長の焼き討ちによって焼失します。

公式サイトの年表では、そのあと天正13年(1585年)に羽柴秀吉が仮堂を建て、寛永19年(1642年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光によって、9年の歳月をかけて再興されたと記されていました。現在の根本中堂はこのとき完成した建物で、国宝に指定されています。廻廊は国の重要文化財です。

年 出来事(延暦寺公式サイトの年表より)
788年(延暦7年) 最澄が一乗止観院を創建
823年(弘仁14年) 寺号を賜り「根本中堂」と改称
1571年(元亀2年) 織田信長の焼き討ちにより焼失
1585年(天正13年) 羽柴秀吉が仮堂を建立
1642年(寛永19年) 徳川家光により再興
2016年(平成28年)〜 平成の大改修(15年間の予定)

根本中堂は2016年から大規模な改修工事が進められていて、公式サイトでは15年間の予定と案内されています。お出かけの際は、公式サイトで拝観の状況を確認しておくと安心です。

ちなみに、根本中堂と並んで焼失が確かめられた大講堂は、公式サイトによると、昭和39年(1964年)に山麓の坂本にあった讃仏堂を移築したものだそうです。

再建の年については、資料によって表記が違う点にも気をつけましょう。延暦寺の公式サイトが寛永19年(1642年)の竣工としているのに対し、文化庁の文化遺産オンラインは、現在の根本中堂を寛永17年(1640年)の再建と記しています。国指定文化財等データベースによると、国宝に指定されたのは1953年(昭和28年)3月31日でした。

平成の大改修について、公式サイトは、本堂の銅板葺き、廻廊のとち葺き、全体の塗装彩色の修理を中心とした保存修理だと説明しています。当初はおよそ10年・約50億円の予定でしたが、家光による再建当初や江戸中期の大改修の様子がわかり、一部を復元することになったため、15年の工期・約73億円に改められました。根本中堂の中庭に設けた修学ステージから屋根の軒先の高さで工事を見られるのは、解体工事が始まるため令和8年(2026年)12月頃までの予定と案内されています。

焼き討ちで焼かれた麓の日吉大社でも、再建が進みました。大津市の文化財の案内によると、国宝の西本宮本殿は1586年に建てられ、1597年に改築されたもので、1961年に国宝に指定されています。観光庁の多言語解説文データベースも、現在の本殿は1571年に信長の軍勢が元の建物を焼いたあと、1586年に建てられたと説明していました。

立石寺から戻された「不滅の法灯」

根本中堂の本尊・薬師如来の前には、「不滅の法灯」と呼ばれる灯火がともっています。延暦寺の公式サイトでは、千二百年間灯り続けている灯火として紹介されていますね。

ただ、この法灯も焼き討ちのときに一度消えてしまった、と伝えられています。国立国会図書館のレファレンス協同データベースには、滋賀県立図書館が「焼き討ちで消えた不滅の法灯は、いつ再び灯されたのか」という質問に答えた事例が登録されていました。

その回答によると、調べた3点の資料では、1585年(天正13年)に根本仮中堂へ、出羽国(今の山形県)の立石寺から不滅の法灯を移したと書かれているそうです。一方で、『天台宗総本山比叡山延暦寺綜覧』では、その時期が1589年(天正17年)10月と記されている、とも紹介されていました。資料によって年が違うので、どちらか一方だけを断定せずに覚えておくのがよさそうです。

立石寺は、天文12年(1543年)に再建された際、比叡山から法灯を分けてもらっていたと伝えられています。焼き討ちで比叡山の灯が消えたとき、今度は立石寺からその灯を返してもらった、というわけです。山形の「山寺」として知られる立石寺と比叡山が、灯火でつながっているというのは、なんだか心に残るお話ですね。

ただし、分灯の時期については、立石寺の公式サイトの説明が少し違います。公式サイトによると、立石寺は貞観2年(860年)に第三世天台座主の慈覚大師円仁が開いた寺で、開山の際に本山の延暦寺から、伝教大師が灯した不滅の法灯を分けられたとされています。天文12年の再建時という説明とは別に、開山のときから法灯を受け継いできたという寺の伝えがあるわけです。立石寺では今も、法灯・香・写経行の「三つの不滅」が守られていると紹介されていました。

滋賀県立図書館の回答で1585年説の根拠として挙げられていたのは、京都・東京の国立博物館が編集した『最澄と天台の国宝』(2005年)、『新修大津市史』第3巻(1980年)、村山修一『比叡山史』(1994年)の3点です。1589年説の『天台宗総本山比叡山延暦寺綜覧』は、延暦寺が1955年に編んだ本でした。年の違いを確かめたいときは、こうした本を図書館で読み比べることができます。

比叡山焼き討ちを読み解くときのまとめ

比叡山めぐりに使える御朱印帳を楽天市場でチェック

  • 焼き討ちの前年、元亀元年の志賀の陣で、比叡山は浅井・朝倉連合軍をかくまい、信長の示した条件にも応じませんでした。
  • 元亀2年9月12日(1571年9月30日)、信長は坂本・堅田周辺への放火を合図に総攻撃を命じました。『信長公記』には「一宇も残さず」焼き払ったと記されています。
  • 犠牲者の数は、『信長公記』で数千人、フロイスの書簡で約1,500人、『言継卿記』で3,000〜4,000人と、記録によって違います。
  • 発掘調査で焼失がはっきり確かめられたのは根本中堂と大講堂で、僧の多くはすでに坂本に下っていたとする見方があります。ただし調査範囲は限られています。
  • 根本中堂は1585年に秀吉が仮堂を建て、1642年に家光が再興しました。不滅の法灯は立石寺から戻されたと伝えられています。

比叡山・坂本のガイドブックを楽天市場で見る

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

織田信長の生涯、人物像、ゆかりの地を、史料や諸説に目を向けながらたどります。

目次