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岐阜城といえば、金華山の山頂にそびえる天守を思い浮かべる人が多いですよね。でも、信長の城を知るうえでは、山のふもとにある「織田信長公居館跡」も見逃せません。発掘調査によって、巨石の石垣や庭園の跡など、信長の館の姿が少しずつわかってきています。
この記事では、岐阜市公式ホームページの「国史跡 岐阜城跡の概要と関連計画」、史跡岐阜城跡の保存活用計画に収められた「岐阜城跡の調査」の章、令和8年度の発掘調査のお知らせ、発掘調査案内所の案内をもとに、山麓部で行われた4回の発掘調査でわかったことを整理しました。
※見学できる場所や案内所の開所日時は変わることがあります。出かける前に岐阜市公式ホームページで確認してください。
岐阜城跡の基本
国史跡に指定された岐阜城跡
岐阜市の案内によると、岐阜城跡は金華山(稲葉山)に築かれた山城で、稲葉山城、井ノ口城とも呼ばれていました。戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織田信長公が天下統一の拠点とした城としてもよく知られています。
岐阜城跡は昭和32年に岐阜市史跡に指定されていましたが、近年の調査によって歴史的価値が見直され、平成23年2月7日に国史跡に指定されました。指定範囲は山麓の織田信長公居館跡を含めた金華山一帯で、面積は約209ヘクタールです。
山全体が「城」
岐阜市の案内では、岐阜城の城域は、分布調査や絵図・文献史料の検討の結果、現在の金華山国有林の範囲に相当することがわかった、とされています。これまでは山頂の天守閣だけが注目されがちでしたが、国史跡の指定では、山麓の居館跡や自然地形も含め、城として機能した山全体が対象になった、と説明されています。
岐阜城跡の3つの価値
岐阜市の案内では、岐阜城跡の歴史的価値が次の3点にまとめられています。
| 価値 | 内容 |
|---|---|
| 天下統一の拠点 | 石垣や巨石列など、近世の先駆けともいえる構築技術 |
| 詳しい記録 | ルイス・フロイスや山科言継らの記録から城の構造の一端がわかる |
| 庭園跡 | 自然地形を巧みに利用し、「見せる」ことを意識した庭園 |
山麓部で行われた4回の発掘調査
岐阜市の資料によると、山麓部の発掘調査は、昭和59年(1984)の1次調査を皮切りに、発掘調査が4回、試掘調査が4回、立会調査が12回行われました。山麓部は、金華山西麓の槻谷(けやきだに)にあり、谷川によって形成された扇状地を削平・盛土して造られた、ひな壇状の平坦地で構成されています。調査では、永禄10年(1567)〜慶長5年(1600)と、永禄10年以前の、大きく2つの時期に分かれる戦国期の層が確認されています。
1. 1次調査(1984〜1987)
1次調査は、市制100周年記念事業に伴い、千畳敷下(下段・中段)と千畳敷(上段)の3つの平坦地で行われました。
下段・中段では、戦国時代の遺構面が3面確認されています。中層面と上層面の直上には炭層があり、火災のあとに廃絶した様子が見られます。岐阜市の資料では、出土遺物や文献記録から、中層面は永禄10年(1567)に信長が稲葉山城を攻略した際の火災、上層面は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際の火災によって廃絶した可能性が高い、とされています。上層面では、巨石石垣で区画された大規模な通路や石垣、建物の礎石などが見つかっています。
2. 2次調査(1988〜1989)
2次調査は、ロープウェー山麓駅の北側に計画された美術館の建設に伴って行われました。戦国時代の遺構のほか、中世の地鎮遺構や古代の土坑、6〜7世紀の横穴式石室(古墳)が見つかっています。岐阜市の資料では、1次調査の上層面に対応する遺構で石敷き遺構などが見つかり、庭園とそれに伴う湯殿の可能性が指摘されている、とされています。
3. 3次調査(1997〜1999)
3次調査は、岐阜公園の庭園整備に伴って行われました。戦国時代では少なくとも3時期の遺構が重なっていて、その下に中世、古代の遺構面が見つかるなど、多くの遺構面の重なりが確認されています。戦国時代の遺構では、石組井戸や石垣、意図的に埋められた打刀などが見つかりました。中世の梵鐘の鋳型や五輪塔、「大寺」と書かれた墨書土器なども見つかり、中世には宗教施設があった可能性が高いことがわかった、とされています。
4. 4次調査(2007〜2017)
平成19年度から始まった山麓部庭園の4次調査は、A〜Fの6つの地区に分けて行われました。主な成果は次のとおりです。
- A地区:巨大な岩盤を背景にした池泉遺構。池の東側の岩盤から流れる2本の滝で水を取り入れていたと考えられ、宴会などの痕跡と考えられる陶磁器やかわらけ、貝殻が多量に出土
- B地区:谷川と石垣で区画された3段の空間。池泉遺構などが見つかり、ルイス・フロイスの記述にある「茶の座敷」であったことが想定される
- C地区:庭園に関する遺構のほか、屋根の棟に用いられた金箔飾り瓦が出土
- D地区:永禄10年(1567)の信長による美濃攻めによるものと思われる炭・焼土層を確認
岐阜市の資料によると、4次調査が平成29年度に完了し、山麓部の発掘調査は一旦の区切りを迎えた、とされています。
4次調査の地区ごとの様子
岐阜市の資料では、4次調査の各地区について、さらに詳しく説明されています。
A地区は谷川の北側にある平坦地で、西・南・北側は石垣で区画されています。池の北側と南側からは建物の礎石が見つかり、宴遊のための建物の存在が想定されています。南側では、階段、石垣、虎口状遺構が弧を描くように連続して配置されていて、虎口状遺構はC地区を結んでいた橋の基礎である可能性が高い、とされています。
B地区は山麓部の東奥にあり、一番低い平坦地では建物の壁土や礎石が見つかり、壁の推定の厚さから蔵のような建物が建っていたことが想定されています。見つかった石垣や壁土は熱で変色していて、廃絶のときに火災が起こったものと考えられる、とされています。
C地区は谷川の南側にある平坦地で、公園造成で大部分が削られていましたが、縁の部分で上段へ上がる通路や、巨石石垣を背景にした池泉遺構などが確認されています。南西部では瓦と鉄釘が多く出土して建物の存在を示している一方、北部中央では瓦は少なく鉄釘が多量に出土していて、瓦を使わない建物の存在が想定されています。
4回の調査のまとめ
| 調査 | 期間 | 主な成果 |
|---|---|---|
| 1. 1次調査 | 1984〜1987 | 3面の遺構面、2度の火災の跡、巨石石垣の通路 |
| 2. 2次調査 | 1988〜1989 | 古墳の石室、庭園と湯殿の可能性 |
| 3. 3次調査 | 1997〜1999 | 石組井戸、打刀、中世の宗教施設の可能性 |
| 4. 4次調査 | 2007〜2017 | 池泉遺構、「茶の座敷」、金箔飾り瓦 |
銀閣寺に似た庭園
「見せる」ことを意識した造り
岐阜市の案内では、山麓の織田信長公居館跡は、巨石列だけでなく周囲の岩盤など自然地形を巧みに利用し、全体的に「見せる」ことを意識した造りになっている、と説明されています。
東山殿との類似性
庭園遺構のうち、最奥部で確認された園池遺構は、池の構造や立地などから、京都の東山殿(現在の銀閣寺)との類似性が指摘されている、とされています。岐阜市の案内では、将軍の伝統や権威を継承しようとした一面がうかがえる、と説明されています。
山上部の調査も続いている
平成30年度から本格的に
岐阜市の資料によると、山上部・山林部では平成30年度から本格的な確認調査が始まり、現在も継続しています。天守台周辺の調査では、天守台石垣と2段目の石垣が一連の工事で同時期に造られたことがわかり、信長期の軒丸瓦・軒平瓦が見つかっていることから、信長期に築かれた可能性が高い、とされています。二ノ門周辺では、岐阜城の発掘調査では初めてとなる鉄製の矢じりが出土しています。岐阜市の資料では、この矢じりは慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前哨戦で使われた可能性がある、とされています。
山上部で見つかった石垣
岐阜市の資料では、山上部の調査区ごとの成果も紹介されています。
| 調査区 | 主な成果 |
|---|---|
| 1区(二ノ門周辺) | 残存高約1.5m、長さ約4.8mの石垣。西端で北側に曲がるL字状の石垣と判明 |
| 2区(二ノ門周辺) | 最大3段、残存高約0.5mの石垣。鉄製の矢じりが出土 |
| 3区(天守台周辺) | 天守台石垣と同時期の2段目の石垣。信長期の軒丸瓦・軒平瓦が出土 |
1区と2区の石垣は、石材の形状や積み方から、信長入城後の石垣に分類されています。
令和8年度の調査
岐阜市のお知らせによると、令和8年度の発掘調査は令和8年8月28日から始まり、上台所と天守南通路の2か所で行われています。調査は11月下旬までの予定で、作業時間は平日の9時30分から15時30分まで(土日祝休み、雨天中止)とされています。
上台所は、絵図に「台所」「上台所」と描かれている大きな平坦地で、令和6年度には道三公時代の巨石石垣が見つかっています。天守南通路は、もともと谷だった地形に、信長公時代に両側に2段の石垣を築いて通路にした場所で、令和5年度の調査では、庭園や眺望を楽しみながら宴会をする饗応の施設があった可能性が出てきている、とされています。
整備の計画
史跡岐阜城跡整備基本計画
岐阜市の案内によると、令和3年12月に『史跡岐阜城跡整備基本計画』(2021-2031)が策定されています。案内では、戦国時代に信長公を訪ねてきた来訪者は、巨石や石垣造りの城に驚き、山上からの壮観な眺めに言葉を失ったと当時の記録に記されている、と紹介されています。
これまでの調査研究のまとめ
岐阜市の資料では、令和2年度にこれまでの調査研究を整理し、多角的な総合調査を行って『史跡岐阜城跡総合調査報告書Ⅰ』を刊行した、とされています。
信長公居館跡のよくある質問
発掘の成果はどこで見られる?
岐阜市の案内では、岐阜公園内の「日本遺産・信長居館発掘調査案内所」で発掘成果を紹介しています。所在地は岐阜市大宮町1丁目(岐阜公園来園者休憩所内)、対応時間は9時〜16時で、観覧料は無料です。火曜日(祝日の場合はその翌日)と年末年始(12月29日〜1月3日)は除くとされています。
案内所では何が見られる?
岐阜市の案内では、日本遺産「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜の概要をまとめた動画や、メタバース岐阜城の紹介動画、発掘調査成果の紹介動画を交互に放映している、とされています。
発掘調査は見学できる?
令和8年度の調査は、調査箇所の通路沿いや上台所休憩所から見学が可能とされています。岐阜公園・華松軒隣の発掘調査案内所で当日の調査予定を案内しているので、事前に確認してから出かけましょう。
岐阜城跡の4回の発掘調査を知って歩こう
最後に、ポイントをまとめます。
- 岐阜城跡は平成23年に国史跡に指定され、山麓の居館跡を含む約209ヘクタールが対象
- 山麓部では1984年から4回の発掘調査が行われた
- 4次調査では、岩盤を背景にした池泉遺構や金箔飾り瓦などが見つかった
- 最奥部の園池遺構は、東山殿(銀閣寺)との類似性が指摘されている
天守だけでなく、ふもとの居館跡から山全体を「信長の城」として歩いてみると、岐阜城の見え方が変わりそうですね。