信長の時代の「南蛮寺」はお寺?京都に建った、和風三階建ての教会を知ろう

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信長の時代を読んでいて、「南蛮寺」という名前が出てきた。
寺と付くから、仏教のお寺なのかな?

ここでいう南蛮寺は、キリスト教の教会です。 京都の南蛮寺は、信長の保護や寄進、宣教師と信者たちの働きの中で整えられていきました。

しかも、京都市の紹介によると和風の三階建て。
教会の名前を知ると、戦国時代の京都に思い描く建物も、少し変わってくるね。

目次

「南蛮寺」という呼び名と、教会の正式名

京都市の文化史解説は、南蛮寺を、安土桃山時代のキリスト教教会を指す呼び名として説明しています。

また、神戸市立博物館の資料を紹介する文化遺産オンライン『都の南蛮寺図』では、京都の南蛮寺の正式名称を「被昇天の聖母教会」としています。

イエズス会、つまりカトリックの修道会が、京都で布教する拠点にした聖堂です。

「寺」と書かれた名前と、建物が使われた目的を並べて見る。歴史の言葉を読むときには、今の名前の印象だけで決めない面白さがあるね。

最初の礼拝堂と、1576年の新聖堂を分けよう

京都市の説明では、最初の礼拝堂は1561年に建ちましたが、戦乱の中で荒廃したとされています。

その後、信長やキリシタン大名の寄進、宣教師や京都の信者たちの働きにより、1576年に新しい聖堂が完成します。キリシタンは、この時代のキリスト教徒を表す言葉です。

二つの年を分けると、最初に建てた建物と、後に整え直した建物の話が混ざりにくくなるね。

「信長の南蛮寺」とひとまとめに覚える前に、そこには、すでにあった礼拝堂の歴史と、多くの人の関わりがあると見ておこう。信長一人で建てた、と説明して終えるのは避けたいところです。

和風三階建ての聖堂は、絵の資料にも残る

京都市の解説では、新しい聖堂は和風三階建てで、一階が礼拝堂、三階が住居と紹介されています。

教会というと、今の街で見かける洋風の建物を想像した人もいるかもしれないね。どんな建物だったかは、その時代と場所の資料で確かめる必要があるんです。

文化遺産オンラインが紹介する『都の南蛮寺図』は、扇の形をした画面に描いた扇面画の一つです。ここでは絵の画像を観察した結果ではなく、掲載された解説をもとに、建物を伝える資料があることを紹介しています。

文字の記録から知る教会と、絵に描かれて伝わる教会。その両方が、当時の京都を考える手掛かりになるね。

フロイスの記録へ進むなら、第2巻が候補に

この話をさらに読みたい人には、『完訳フロイス日本史2 信長とフロイス 織田信長篇II』が候補です。フロイスは、日本で活動した宣教師です。

中央公論新社の商品案内は、この巻で南蛮寺建立の経緯を扱うと紹介しています。建立は、建物を建てることです。訳者は松田毅一・川崎桃太です。

楽天の中古掲載とは、本の識別番号であるISBN9784122035812で照合しました。

楽天で『完訳フロイス日本史2 信長とフロイス』の中古掲載を見る

今回、同書の南蛮寺を扱う章本文までは読んでいません。ここでの建物や年代の説明は、京都市と文化遺産オンラインの公開解説で確認したものです。

南蛮寺という名前を、次に見つけたら。
まず教会だったこと、次に1561年の礼拝堂と1576年の新聖堂を分けて思い出してみよう。名前だけだった場所に、信長の時代を生きた人たちが集まる建物を思い描きやすくなるよ。

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この記事を書いた人

織田信長の生涯、人物像、ゆかりの地を、史料や諸説に目を向けながらたどります。

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