※本記事には広告・アフィリエイトリンクが含まれます。
織田信長の城といえば、岐阜城や安土城を思い浮かべる人が多いかもしれません。その前に、信長が清須から移って拠点にした城があります。愛知県小牧市にある小牧山城です。いつ、なぜここに城が築かれ、どれくらいの期間使われたのか、気になる人もいるでしょう。
この記事では、小牧市が公開している「史跡小牧山主郭地区第2次発掘調査現地説明会」資料、「史跡小牧山大手道第2次発掘調査 現地説明会 資料」(令和7年12月13日)、そして「広報こまき」2026年5月号の記事「史跡小牧山山頂部の石垣復元整備が完成!」をもとに、小牧山城の歴史と発掘調査でわかったことを5つのポイントで整理します。後半の、現地を歩くときの楽しみ方は、この記事の提案です。
※発掘調査や整備は続いているため、内容が変わることがあります。その時点の情報は、小牧市の公式サイトで確かめてください。
小牧山城とは
国指定史跡「小牧山」にある城
小牧市の発掘調査資料では、遺跡名は「小牧山城(国指定史跡 小牧山)」と書かれ、所在地は愛知県小牧市堀の内一丁目地内とされています。小牧山という山そのものが国の史跡に指定されていて、その山に築かれた城が小牧山城です。
信長と家康の2人に関わる城
小牧市の資料の「小牧山の歴史」では、織田信長が小牧山城を築いたこと、そして後に徳川家康が信長の小牧山城跡を改修して陣城にしたことが紹介されています。戦国時代の有名な2人に関わる場所だという点が、小牧山城の大きな特徴です。
小牧山城の5つのポイント
1. 永禄6年(1563)に信長が築城
小牧市の資料の年表では、永禄6年(1563)に、織田信長が小牧山城を築城し、清須から移ったとされています。それまでの居城だった清須城から、拠点を小牧山へ移したことになります。
2. 永禄10年(1567)に岐阜へ移る
同じ年表では、永禄10年(1567)に、織田信長が稲葉山城を攻略し、岐阜と改称して小牧山から居城を移したと書かれています。そして、小牧山城は廃城となったとされています。年表の年をもとに計算すると、信長が小牧山城を居城にしていたのは約4年間です。
3. 小牧・長久手の合戦で家康の陣城に
年表では、天正12年の小牧・長久手の合戦のときに、徳川家康が織田信長の小牧山城跡を改修して陣城にしたと紹介されています。信長が去ったあとの城跡が、別の戦いで再び使われたのです。
4. 山頂部をぐるりと囲む石垣
「広報こまき」2026年5月号では、史跡小牧山で令和3年度から山頂部主郭地区の整備工事が行われ、令和8年3月末に、山頂部をぐるりと一周取り巻く石垣や、門の跡とみられる礎石と側溝跡の復元がすべて完了したと紹介されています。
5. 何度も折れ曲がる大手の登城路
大手道第2次発掘調査の資料では、麓から山頂へ至る大手の登城路は、麓から中腹までは北に向かって直進し、中腹で東に直角に折れ、さらに直進したのち、山頂まで「コ」の字型の屈曲を5回繰り返すと説明されています。
5つのポイント早見表
| ポイント | 内容 |
|---|---|
| 築城 | 永禄6年(1563)、信長が築き清須から移る |
| 移転 | 永禄10年(1567)、岐阜へ移り廃城に |
| 再利用 | 天正12年、家康が改修して陣城に |
| 石垣 | 山頂部を一周する石垣の復元が令和8年3月末に完了 |
| 登城路 | 山頂まで「コ」の字型の屈曲を5回繰り返す |
江戸時代から昭和までの小牧山
尾張藩領として入山禁止に
小牧市の資料の年表では、小牧山は尾張藩領となり、家康公ゆかりの地として、一般の入山が禁止されたと書かれています。
国有地から徳川家の所有へ
明治2年(1869)には版籍奉還により国有地となり、明治22年(1889)には小牧山が徳川家の所有となって、一般公開を止めたとされています。
昭和5年に小牧町へ寄付
昭和5年(1930)に、徳川家から小牧町へ小牧山が寄付されたと年表に書かれています。
| 年 | できごと(小牧市の資料より) |
|---|---|
| 永禄6年(1563) | 信長が築城し、清須から移る |
| 永禄10年(1567) | 信長が岐阜へ移り、廃城となる |
| 天正12年 | 家康が城跡を改修して陣城にする |
| 江戸時代 | 尾張藩領となり、一般の入山が禁止される |
| 明治2年(1869) | 版籍奉還により国有地となる |
| 明治22年(1889) | 徳川家の所有となり、一般公開を止める |
| 昭和5年(1930) | 徳川家から小牧町へ寄付される |
発掘調査でわかった石垣の特徴
永禄期と天正期の2つの時期
主郭地区の調査資料では、古い時期の方が織田信長による築城段階(永禄期)、新しい方が小牧・長久手の合戦時(天正期)と考えられることが示されています。また、頂上付近の曲輪は、永禄期に築かれたものが天正期にもそのまま使われたとされています。
外から運ばれた石材
大手道第2次発掘調査の資料では、登城路の一番下の屈曲部で見つかった石垣の石材の多くは小牧山産の堆積岩でしたが、花崗岩4石と川原石3石が含まれていたと報告されています。花崗岩は、小牧山の北方約3kmにある岩崎山から運んできたものと考えられるとされ、花崗岩の石材が使われていることなどから、この石垣は永禄期に築かれたものと推定されています。
石垣の大きさ
同じ資料では、この石垣(南面)は築石が最大で3段分残っていて、裏込石の残り方から、本来は約120cmの高さがあったと考えられると説明されています。築石の大きさは、縦15〜40cm、横20〜70cmとされています。
| 項目 | 資料に書かれている内容 |
|---|---|
| 主な石材 | 小牧山産の堆積岩 |
| 外から運ばれた石 | 花崗岩4石・川原石3石 |
| 花崗岩の産地 | 北方約3kmの岩崎山と考えられる |
| 本来の高さ | 約120cmと考えられる |
石垣の復元はどう行われた?
遺構を守りながら復元
「広報こまき」2026年5月号では、築城当時の地表面を保護するため、石垣の下には盛り土を施していると説明されています。石垣は発掘調査で確認された高さまで復元し、推定される本来の高さは盛り土や植栽で表現しているとされています。
当時に近い石材を使う
石垣が失われていた部分には新たな石材を補って復元したと書かれています。補う石材には、当時の石垣にも多く使われていた「チャート(堆積岩の一種)」を主に用いているそうです。
史跡小牧山の整備計画
専門家と市民による検討
主郭地区の調査資料では、平成8年12月に「史跡小牧山整備計画策定会議設置要綱」を制定し、市民代表からなる史跡小牧山整備計画策定会議を設け、翌年には城郭、建築、文献などの専門家からなる史跡小牧山整備計画専門委員会を設けて、整備計画の検討を始めたと説明されています。
3つの整備の理念
整備の理念として、「日本の表舞台に登場した歴史遺産としての小牧山」「市民の憩いの場としての小牧山」「小牧市の顔-ランドマーク-としての小牧山」という、小牧山がもつ価値を明確にしたとされています。そのうえで、平成11年3月に『史跡小牧山整備計画基本構想』が策定されました。
整備の時代設定
同じ資料では、整備の主たる時代設定は天正12年の小牧・長久手の合戦時と定めたと書かれています。あわせて、信長在城時の永禄期についての注記も添えられています。信長の城と家康の陣城、2つの時代が重なる史跡ならではの考え方です。
| 年 | 整備計画の流れ(小牧市の資料より) |
|---|---|
| 平成8年12月 | 整備計画策定会議設置要綱を制定 |
| 翌年 | 専門家による専門委員会を設置 |
| 平成11年3月 | 『史跡小牧山整備計画基本構想』を策定 |
| 令和3年度〜 | 山頂部主郭地区の整備工事 |
| 令和8年3月末 | 山頂部の石垣などの復元が完了 |
大手道の発掘調査の概要
調査の基本情報
大手道第2次発掘調査の資料では、調査理由は史跡整備、調査面積は約413㎡、調査期間は令和7年5月〜令和8年2月(予定)、調査主体は小牧市教育委員会とされています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 調査理由 | 史跡整備 |
| 調査面積 | 約413㎡ |
| 調査期間 | 令和7年5月〜令和8年2月(予定) |
| 調査主体 | 小牧市教育委員会 |
切り立てられた岩盤
同じ資料では、調査区の北側の山の斜面で、上半が石垣、その下が切り立てられた土と岩盤からなる壁面が確認されたと報告されています。石垣の下部は土と岩盤を切り立てていて、約60度の傾斜があるとされています。
3つの調査区
調査区は、一番下の屈曲部(A地区)、下から2番目の屈曲部の北側隅部(B地区)、中腹で東に折れて直進する大手の登城路とその北に沿う土塁と空堀の部分(C地区)に分けて設定されたと説明されています。C地区は、小牧・長久手の合戦時に改修された登城路や土塁、空堀の状況を確かめるための調査区です。
小牧山城を歩くときの楽しみ方
ここからは、小牧市の資料をもとにした、この記事の提案です。
登城路の曲がり角を数える
大手の登城路は、山頂まで「コ」の字型の屈曲を5回繰り返すと説明されています。歩きながら曲がり角を数えてみると、資料の説明と実際の道を重ねて楽しめます。
石の色や形を見くらべる
資料では、石垣には小牧山産の堆積岩のほか、外から運ばれた花崗岩や川原石も使われていたとされています。石の色や形の違いに注目してみるのもおもしろいでしょう。
岐阜城・安土城とあわせて考える
信長は小牧山城のあと、岐阜へ、そして安土へと拠点を移していきます。小牧山城を「信長の城づくりの途中の姿」として見ると、ほかの城との違いを考えるきっかけになります。
よくある質問
小牧山城は誰が築いた?
小牧市の資料では、永禄6年(1563)に織田信長が築城したとされています。
信長はどれくらい住んでいた?
永禄6年(1563)に清須から移り、永禄10年(1567)に岐阜へ居城を移したとされています。年表の年から計算すると約4年間です。
家康とはどんな関係がある?
天正12年の小牧・長久手の合戦のときに、徳川家康が信長の小牧山城跡を改修して陣城にしたと、小牧市の資料で紹介されています。
石垣の復元はいつ終わった?
「広報こまき」2026年5月号では、令和8年3月末に山頂部をぐるりと一周取り巻く石垣などの復元がすべて完了したとされています。
小牧山城はいつ廃城になった?
小牧市の資料の年表では、永禄10年(1567)に信長が岐阜へ居城を移し、小牧山城は廃城となったとされています。
発掘調査の成果はどこで知れる?
小牧市の公式サイトで、発掘調査の現地説明会資料などが公開されています。
小牧山城は信長が清須から移った城
小牧山城は、永禄6年(1563)に織田信長が築き、清須から移った城です。永禄10年(1567)に信長が岐阜へ移ると廃城となりましたが、天正12年の小牧・長久手の合戦では徳川家康の陣城として使われました。発掘調査では永禄期の石垣や登城路が確認され、令和8年3月末には山頂部の石垣の復元が完了しています。資料を片手に、信長の城づくりの跡を歩いてみてはいかがでしょうか。